距離と対話

このblogはなるべく数学の話をしたいのだけれど、今日は特別に、そうでないものを書きたい。

「大人はバカだ」と思ったときに読むコラム

これを読んだからだ。

そもそも「バカな大人」をからかいたいと思うのは、あなたが大人に対してコンプレックスをいだいた子供だからだ。大人でもそうだ。「バカな他人」をからかいたいと思うのは、自分に自信のない大人だけだ。自信のある大人は「バカな他人」に関わったりしない。それはお互いに奪い合う不毛な人生の使い方だと知っているから。自信のある大人は、他の、バカでない、自信のある大人を探す。そしてお互いに与えあう関係を築くことで、自分の人生を有益に使おうとする。

とくにこの部分を読んだ時、 ちょうど考えるところがあるので書くことにした。

題して「距離と対話」


いま、ある司法書士の友人と関係が断裂している。 いや、友人じゃないもんね。ふん。(と書いておくが、やはり深く考えるに、私としては彼は友人だと感じる。)

彼との対話は、それは面白い物で、いろいろ書いてみたいと思うこともある。 しかし、それは当人が書いてほしいこと、書いて欲しくないことが織り交ぜられていると思う。なのでそういうことはしない。 彼についての評を私が明かすことには公益性も特にないし、何かあれば名誉を傷つけるかもしれない以上、やるべきでないと思うから。 (詳しい法律の話は、それこそ彼に聞かないと分からないけれど。)


さて、実は彼と関係が断裂したのは1度ではない。 彼が私の前からいなくなったことも、私が彼の前からいなくなったことも、なんどもある。

大抵はSkypeの連絡が帰ってこなくなる。リアルでも合わなくなる。それから数日してメールを交換してみたりする。 そのメールでもまだ腹が立ってるようなら、そのままで、やっぱり断裂は終わらない。

そういうとき実は、とにかく会話をやめることを「二人して」目指していると思う。


彼はいろいろとあって、対人関係において私の他の知り合いたちとは随分違う感覚を持つ人だけれど、この時ばかりは他と同じく距離を測る。 私もそういうところを指摘される面もあるが、それでもこの時ばかりは距離を測る。

その距離の測り方で最初に目指すのが「話すのをやめる」ことだ。

なんでわざわざ遠ざかろうとするのかと思うかもしれない。 その理由が「そういうときは、対話が成立しないから」だ。

僕らは対話を試みる。しかしうまくいかないこともある。

双方とも、または、一方が興奮しているのかもしれない。 片方がやたらと語りすぎなのかもしれない。

単に忙しい状況なのかもしれない。 まだ十分な知識を持っていないのかもしれない。

聞く側の能力が足りないのかもしれない。 話す側の言うことが間違えているのかもしれない。

互いに「いい大人」だから「大人はバカ」なのかもしれないし、 そもそも「バカな大人」でもなく、「いい大人」になれてないのかもしれない。

原因は色々ありうるけれど、 対話が成立しない理由を探して、ああじゃない、こうじゃないと言い合うのもうまくない。 それは火に油を注ぐだけかもしれない。あとでいい。

だから一度、なにはともあれ距離をとる。

片方がバカだったことを明らかにしても仕方がない。 片方の責任を取り上げても仕方がない。 延々と終わらない議論を続けたって、互いに納得しないだけ。

僕らが本当にほしい物は、そうじゃない。 ほしいのは、僕らが互いの知見を交換することだ。


対話は、キャッチボールのようだと例えられる。

キャッチボールは、豪速球を投げればよいという物ではない。 なるべく相手にあわせて、良い場所によいスピードで投げてあげる必要がある。 受ける側は、合わせてくれない相手に投げられ続ける必要はない。

投げる側は努力を払ったとして、それでも相手がキャッチできないこともある。 たとえば、どんなに努力しても取れない子を相手にすることもある。 そんなとき、投げる側は無理に投げ続ける必要はない。

一見鋭いボールを投げられるのが良いことに見えるかもしれない。 だから鋭いボールを投げる人に合わせるのが良いと思うかもしれない。

しかしそれは実際には成立しない。 ただどこかあらぬところにボールが飛んでいくだけだ。

キャッチボールには上手下手なんてものはない。 キャッチボールの結果は二人の関係で決まる。

だからただ二人は一度距離を取ればいい。 ここは一度、キャッチボールの成立する相手を探していけばいい。 それから時間がたてば、また改めてその人ともキャッチボールできるかもしれない。


正しいことが明らかになれば、それで対話が成立するわけではない。 人間は完全ではないから、正しいものをはっきりと言うと、受け取れないことがある。 正しいことでも、長すぎる文章や、激しすぎる文体では、やはり受け取れないこともある。 それらをどちらも受け取れる人だけが偉いなんてことも、ない。

対話はキャッチボールのようなものだ。とくに、宝石を投げ合うようなキャッチボールだ。

自分の知らない話をしてくれるかもしれない友達がいて、 自分の知ってる話を聞いてくれるかもしれない友達でもあって、 そう言う関係で行うキャッチボールだと思う。

正しいことが存在しない話だって、彼とならできる。 彼と僕は、互いの距離を置く権利を、互いに尊重するから、それができる。 ここでは距離をとることそのものが、一つの対話として成立している。

だから、そうやって距離をとる権利を認め合えて、 それでも対話を続けられる相手こそ、人生の宝石だと思う。


そういう理由で今回もまた縁を戻す日がくるかもしれないな、と思いながらも、 今はまだ、断裂している彼とは遠くにいる。逆に彼もまた私の遠くにいる。

……いやだってさー、今回は酷くないか?だってさあ。。。 まあでも、メールの返事くらい、そろそろ打とう。